みなさん、おはよーうございます。。。
朝から満腹になるほど食べ過ぎてしまいました。
頻繁にブログでは「相違」や、それにまつわる事が話題にされているということらしいです。
それでは、「相違」に関連する動画をご紹介しておきます。
【Kinki Kids】 堂本光一とジャニー社長の演出意見の相違【芸能トレンド大好きch】
あらら・・・。
ちなみに・・・
【質問内容】
【回答リクエスト】 arisanmark2009様への回答リクエストです。早速ですが、よろしくお願いいたします。 <メイントピック> 【お互いに共通の思考を持ちながらも、なぜ、「感覚」についてはまったく異なる考えに辿り着くのか】 他にもいろいろ質問してみたい内容はありますが、一度にたくさん話すと収拾がつかなくなると思いますので、ここでは「感覚」について質問したいと思います。 ———- まずは…先日はいろいろとお世話になりました。 先日のやりとり: https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10172690425 毎度、わからずや & ひねくれ者の私に最後まで返信を続けてくださってありがとうございます。 まだ返信したりない内容が多々あると思いますが…ここでは、私とアナタ様の共通点から出発して話を進めたいと思います。 今までは、私とアナタ様の相違点についての言い合いしかしていなかったので、お互い良い気持ちになれなかったと思うので。。。(正直なところ、そのような相違点の言い合いも、私は好きです。考えの違う者同士がぶつかるのは、別に悪いことだとは思いません(殴り合いでなければ…)。その言い合いのおかげで、自分の思考が整理される & 相手の本当に言いたいことが見えてくるので。) ———- さて、ここからが本題。 Q. なぜ、そこまで自分の感覚を信じられるのでしょうか? この質問の目的ですが…別に私とアナタ様の思考・目線を合わせたい、というわけではないです。お互い違う考え・方向性を持つのは構わないし、そもそも違って当然だと思います。 ただ…いくつかの共通点がありながらも、最終的な考えが異なるのはなぜか?を探りたい、というのがこの質問の目的です。(個人的には、それは単なる「独学とレッスンの差」だとは思えない) ———- <補足1: アナタ様との共通点について> 前回のやりとりで見つかった共通点は、少なくとも以下の2つはあると感じました。 > 現実は変えようありません。 > 答えなんかいくらあってもいいんですよ! さらには、今更ながら(?)、アナタ様のプロフィールを拝見させていただいたのですが…実のところ、そこに書かれていることのほぼすべてが、強く共感できるものでした。 ただ…アナタ様との共通点が多いということに気付けば気付くほど、「自分の感覚を信じられる」という意見に対する疑問が大きくなっていきます。 <補足2: 私の「感覚」に関する意見> 前回もお話しした目の錯覚。これは感覚と現実には乖離があるということが簡単に理解できる例の一つです。2本の長さは、感覚的には違うように見えますが、同じだという現実は変えようがありません。しかも、【感覚以外のツール】で調べないと、現実では同じだということがわからないです。 また、得られた感覚がどうかという答えはいくらあってもいい、というのもわかります。例えば、食べ物なんかはそうですね。同じものでも、人によっては「おいしい」「まずい」があり、どれも正解です(…というか、そもそもこれに正誤はない)。ただ、だからこそ注目すべきは、そのときの「感覚」ではなく、実際には【何をしたか】(この例でいえば、何を食べたか)だと思うんです(つまり、感覚は信じるものではなく、何かの結果として現れるもの)。 前回のやりとりで、アナタ様は「そこらへんの熟練者よりよっぽど感覚の感度が高い」部類に入る…と取れるような発言をしてくださったと思うのですが、もし本当にそうだとすれば、なおさら、我々一般人より上記のような話には敏感になっている…と思ったのですが、その認識から違っているのでしょうか。。。 ———- すみません、毎度のことながら長い文章になってしまいました。 お時間があるとき、気が向いたときで構いません。もしよろしければご回答いただければ幸いです。 よろしくお願いいたします。
【ベストアンサーに選ばれた回答】
こんにちは、 まず最初に共通の思考を持つというのは勘違いです。 いざ音楽に対しての思考であなたと共通の部分は何一つないな~ というのが私の感想です。 決して人間的に嫌いなタイプという訳ではありません。 ただ単に違う人種という事です。 因みに異質なのは私の側です。 あくまで音楽というものに対してだけはそうだという事です。 「感覚」についての見解ですが 理屈は何一つ要りません。 理屈とは真逆の方向です。 感覚を鍛える事こそが素晴らしい演奏をする最大の手段であるからです。 感覚に対しては私はあなたの理屈は一切聞きたくありません。 私は自分の感覚だけを頼りに生きています。 ですから基本自己中心的です。 最終的にな考えが異なるのは全てが違い、まずその目的がまるで違うからです。 【目的】に対しての過程であり結果があるのです。 あくまですべての基本である思考の中心を自分の感覚に置いています。 私は生まれてすぐ位の頃から音に対する感覚が異常なほど敏感であったようです。 まだ歩く事ができず抱かれていた頃から盆踊りの賑わいにこの子は気が狂ったのか?と思われるほどその脈動に合わせて体を揺すって暴れていたそうです。 >我々一般人より上記のような話には敏感になっている…と思ったのですが、 @あなたの仮の帰結はすべて逆なのです。 そんな話はどうでもいいのです。 あなたが関心を持っている話は私はまるで興味も関心もありません。 あなたにも全く興味はありません。 それが科学的にどうであろうと学術的にどうであろうとどうでもいい事なのです。 論理では一切考えません。 逆にそういった論理的思考は大きな演奏の妨げになります。 結果に導く最短距離が自分の感覚なのです。 私は自分の感覚を頼ってあなたのように挫折した事は一度もありません。 そこには答えが既にあるからです。 最初から才能があってすぐにその答えを導ける人間は 他人の論理などどうでもいいのです。 感覚を研ぎ澄ませるには一切考えてはいけません。 全てを排除して無になる事ができるかという事です。 無から導き出す事が感覚なのです。 それを第三者がデタラメと呼ぼうがそんなのはどうでもいい事なのです。 そういった能力のある人間だけがわかる事です。 天才・・・最初から備わっているのですから 天が与えた才能なのでしょう。 実際にそういう才能がある人間は喜んでばかり居られる訳ではありません 当然その才能の弊害も沢山あります、感覚神経が意識の領域まで及んで常に耳鳴りがしていたり、現実の声は全てが音で聴こえ易しい言葉が理解できなかったり普通の人があたりまえにできる事があたりまえにできなかったりします。 目の錯覚の話などどうでもいいのです。 私は目もいいのですが、目の感覚の話はしていません。 あなたの論理的思考を持ち込まないでください。 僅かな気が乱れが判断を誤ります。 …以上 原型 私は論理的思考をする時と実際に音楽演奏をする時には完全に頭を切り替えています。 厳密には切り替えようと思ってもすぐには切り替わりません。 ですから哲学的な話をしている私と演奏している私は別人です。 更に酷い演奏をしている私とその世界に入って演奏している私も別物です。 指示命令系がまるで違うのです。 演奏している姿勢や指運びから何から何まで違うのです。 大凡目を瞑って気を読んでいます。 気に従って指を動かしているだけです。 ぎこちなく酷い演奏をしているのは私自身です。 私は才能がありません。 素晴らしい演奏をしているのは過去の演奏家や天からくるものです。 それを学術で縛られたくありません。 私の肉体を動かしているのは私に付帯している意識です。 その意識はいつも同じではありません。 鍵盤を叩いて奏でられるサウンドに感銘を受けた意識が集まってきます。 どのような意識と共調するかによってその演奏が決まります。 既成の学術でそれを測りたければお好きにすればいいんじゃないですか? 答えは全て誤りです。 わかってない人に説明してもどこまでいっても理解できません。 堂々巡りを避ける為にあえて原型である私の論理?ではありませんね・・・本音で語りました。 それを否定しようがお好きにすればいい事です。
今日の知恵袋には、こんなご相談もありました。
なんとなくですが、どうやらフライドチキンとかのことが気になるところです。
さて、今日も一日尽力しましょう。。。